一八℃の雪



《僕は、ここ以外の世界を知らない。》
 ハルは一つ背伸びをして肩をならしながら、そう考えた。くっと見上げると眼鏡のレンズの向こうに青い天蓋が霞んで見える。
 天蓋。
 『嘆きの戦い』と呼ばれる大戦争からこちら、彼らの住まいは広大なドームの中にのみあった。仮初めの空はドームに投影されたもので、人々はみな生まれてこの方ほんものの空というものを見たことがない。気候は全て、ドームの中のコントロールタワー、その最上階の三一〇階にある気象制御室で常に一八℃と言う適温に設定されていた。
《ドームの外は、どんな世界が広がっているのだろう……》

「ハルっ!」
 飛びきり元気のいい声が、背後から迫ってきた。聞きなれたハスキーヴォイス。と、何者かに瞬く間に背中に飛びつかれた。
「サイ…。重い、ってば」
 ハルは、げっそりした声でおんぶお化けを振りほどこうとする。しかし、相手も心得ていると見えて餌にくらいついた魚のように離れようとしない。ようやく離れたときには二人ともすっかり息が上がっていた。
 それは、一番の親友であり悪友でもあるサイだった。青みがかった灰色のやや長い髪は、後ろで一くくりにしてある。同じ色をした大きな瞳は、ハルにはない勝気さといたずらっぽさを兼ね備えていた。
「何だっていつも抱きついてくるのさ」
 ハルはいつものことだけど、と言う風にうんざりした顔で問いかける。この問答もいつも繰り返しているもので、サイはにっと笑ってから、
「親友に対するスキンシップじゃないか。それともいけないって言うのかい? ひどいや」
 と冗談めかした口ぶりで言った。そしてそれを受けたハルがあきらめたようにため息をつく、というのが二人のお決まりの挨拶になっていた。
 二人は先にも言ったように親友ではあるのだが、より正確に言うとハルがサイの天衣無縫さに振り回されている、といったほうが正しい。そのある種くされ縁とも言える二人の関係は、まだキンダー(幼等課程)に通っていた頃からのものである。
 キンダーはドームの子どもたちのうち、特に秀でたものを得る可能性を持っていると認めたものを受け入れて英才教育を施す全寮制の機関だ。そこに通う子どもたちは彼らに与えられた教育課程を修了するまで、多くがキンダー、そしてそれ以降の勤務先などという閉ざされたコミュニティ以外の世界を知らずに育ち、親の顔も知らぬものも多い。いや、むしろ本当の父母を知るものの方が稀である。ほとんどの子どもたちが、都市計画にのっとった人工授精児だからだ。それゆえか、彼らの多くは横のつながりを大事にするようになっていた。
 そんな特殊な状況下で、まだ幼く引っ込み思案だったハルをサイは半ば無理やり『友人』と認め、実際そうなった。サイは時にはハルと遊び、またあるときはハルで遊んだ。
 やがて時は過ぎ、この春めでたく一五歳になったハルとサイはSMA(高等課程)を修了した。このドームでは、キンダーを出た子どもたちは特殊な高等課程の後、さらにみなそれぞれの専門課程に進み、自身の学問をこなしながら、ドーム内の研究機関及び中枢機関で己の得意分野を生業として暮らしていくのだ。
 二人の専門は異なった――ハルはエンジニアリング、サイは地学。ハルはその才能を買われて中枢機関のホストコンピュータグループに配属され、サイはそのままさらに上の研究機関に進んで研究を続けることになった。そうなってから三ヶ月、道を違えるようになってからはなかなか会う日がなかったのだが、今日は違う。
 久々に二人で顔を合わせる約束をしていたのだった。

「お前さ、すっかりらしくなったな」
 SMA時代からの行きつけのカフェでコーヒーをすすりながら、サイが言った。彼は服装に無頓着なのか、よれよれの白衣をまとってへらへらとしている。ハルはぷっと吹きだしそうになった。
「なに言ってるんだよ。お前の格好こそ、まるでキンダーのドクター・ミサゴみたいだぜ」
 ドクター・ミサゴはやはり地学の講師で、キンダーで教鞭をとる傍ら今はサイの教官になっている。当時から変わり者のレッテルを貼られていて、しょっちゅう彼のよれよれの白衣の背には草の切れ端がくっついているような人だった。それを聞くと、サイはまあな、と笑った。
 一方ハルはこざっぱりした開襟シャツとブルーのスラックスといういでたちだった。特に学生時代と変わったつもりはないのだが、サイに言わせるとブルーのスラックスは『エンジニアっぽい』らしい。実際には、開襟シャツの左胸に小さく輝く所属を表すバッチだけが身分をあらわすものだった。
 でも、と一息おいてからハルは言った。
「変わってないな、何だかんだいって」
「お前こそ」
 二人は腹を抱えて笑った。

「……ところでお前、ドームの外って知ってるか?」
 話もたけなわとなってきた頃、サイがあたりを見回しながら、声をひそめて問いかけた。 ハルはぎくりとして、思わず手にとったスプーンを取り落としそうになる。それはずっと考えていたことだったから。
 サイはさらに声を落として秘密をささやくように言った。

「……実はドクター・ミサゴが、偶然ドームの外の情報を手に入れたんだ」

「何だって? それ、本当か?」
「ああ……。といっても、当然最新の情報ではないけれど」
 サイの言うことはこうだった。
 普通の人にはドームの外の情報は漏れないようになっている。もし外のことが知られたら、ドームの住人が大混乱に陥ることは必至だからだ。そして、その情報はハルが所属している中枢のホストコンピュータで全て管理されている。しかし、世の中には裏の情報網というものがあって、そこでは違法なデータなどが法外な価格で取引きされているのだ。
 ドクター・ミサゴはそこで流れていた、ドームの外の裏情報をひょんなことから手に入れてしまったのだという。
「そんなこと、僕に話していいのか? 一応僕も中枢で働く人間だぞ」
「そこなんだ。彼は特にその情報を欲していたわけじゃない。それどころか、いちおうああ見えても中枢の一部……キンダーで働いてる。いくら地学的に重要な情報といえどもそんなものに手を出したりはしない。むしろ、不気味がってるね」
 そこまで一息に言うと、サイのいたずらっぽい瞳がきらりと閃いた。
「見たくないか?」
「なっ……、まさか?」
「そのまさか。ふふふ、さーて問題、これは何でしょう?」
サイは白衣のポケットから無造作にカード状のホロ・データを取り出してくるくると手のなかで回した。
「ミサゴのコンピュータから一部をダウンロードしたんだ」
スイッチを軽くはじくと、そこには小さな白いものがちらちらと落ちていく様子が捉えられていた。
「……何だ、これ?」
 ハルが首をひねると、サイはにやりと笑った。こんなものも知らないのか、という風だ。
「これは、……そう、大体三〇〇年くらい前の映像だ。どこのものかはわからないがな。寒い、って単語があるだろ? その言葉がまだ普通に生きていた頃だ。これは、その寒いときに起きる気象現象の一つで、《雪》っていうんだ」
「……ゆき……」
 ぼんやりとおうむ返しにハルは呟く。
「この雪は、マイナス三〇℃くらいの寒気……冷たい空気だな。そいつが地上三〇〇〇メートルの上空にいるときに水蒸気が昇華、つまり気体から固体へ変化される。それが降ってくるんだな」
まるで教科書を読むかのように、すらすらとサイの口からついて出る言葉はハルにとってはじめて聞くものばかりだった。その視線はホロ・データに釘付けで、耳を通ってはいるがきちんと理解できているかどうかはちょっと怪しい。そして、ついこんな言葉が口をついて出た。
「見てみたいな……雪」
「え?」
 サイが怪訝な顔で聞く。ハルの発言の真意をわかりかねる、といった感じだ。
「だからさ。このドームに本物の雪を降らせてみないか? 雨なら降雨機で降らせることができるんだし、人工的に雪を降らせることだってできるんじゃないか?」
 一瞬、沈黙。
「……やっぱり、駄目だよなあ……」
 とハルがため息をつくのとほぼ同時に、
「それ、すごいぞ! おい、たまにはすごいこと思いつくんだな!」
 と、サイが大きな音を立てて立ち上がった。思わず、周りの人々が振り返る。それに気づいたサイは照れ隠しに一つ咳払いをすると、
「いや、それは思ってもみなかった。ドームのなかはいつも一定の温度に設定されているからな」
 と言った。
「『たまには』は余計だよ。でも……できると思うかい?」
「理論上は可能ではあるな……。でもばれたら厳罰ものだぞ」
ハルの一見とっぴな発想に、サイは真剣に考えてくれる。だからこいつが好きなんだよなあ、とハルはわくわくしながら思った。
「ここじゃ何だから、場所を移そう。誰も来そうにない場所……お前の部屋なんかどうだ?」
「いいねえ」
 ハルは笑った。
「お前の好きな『ルーフ』のアイスキャンディ、昨日買ってきたばかりだ」

 それから数日後の夜。事前に話していたとおり、セントラルステイションで二人は待ち合わせた。サイは相変わらずの白衣姿に大きなザック、ハルは黒いジャージーの上下という格好だった。
 サイは目をきらりとさせて、ひそやかに聞いた。
「ハル、お前、話はつけてきたろうな」
 その言葉にハルは頷く。
「ああ。キンダーの同期でセトって奴がいたろ、あいつが気象制御室で助手として働いてるから、頼んでいれてもらえるようにしたよ。セトのやつ、雪の話をしたら面白がってたぞ、自分も見てみたいって」
 あいつもよっぽど変わり者だったからなぁ。
 二人はまるで声変わり前の子どものように心持ちはしゃぎながら、コントロールタワーへと向かっていった。自分のそのいでたちも昔読んだ小説に影響を受けている、とハルは考えている。もっとも、身分を示すバッチは相変わらず胸元で光っているし、サイときたらザックの大きさを除けばそんな重大ごととは思えないくらいいつもと同じスタイルだ。
やがて目的地――中心地にあるコントロールタワーにつくと、認証確認をして中に入る。サイはこれを持っていないので、
「気象制御室のセトに呼ばれました」
 と半ばあたっている嘘をついて中に悠々と入った。肝の座ったやつだ、とハルは改めて友人を見つめる。
 さらにそのタワーの高速エレベーターを何度か乗り継いで、ついに三一〇階の『気象制御室』と書かれているプレートのかかったドアの前に立った。別にここまでは違法行為をしているわけではない――せいぜいが越権行為だ――ので、二人とも表面上はしれっとした顔を見せている。とはいえ、ハルの心臓は緊張で爆発しそうだった。
 ピンポン。
 慎重にインタホンを押すと、「はあい」と間延びした声が聞こえてきた。ドアのロックが内側から外れ、ひょいと顔を見せたのは、赤毛をみつあみにした、そばかすの多い少女だった。
「ああ、サイ、ハル、いらっしゃい」
 おっとりとしたしゃべり口調の少女――セトは、にっこりと笑って二人を迎え入れた。 初めて入る気象制御室はホストコンピュータと直結している機関であるため、さまざまなタイプの端末が整然と置かれていた。重要機関ということもあって、ハルが知識でしか知らない旧型から最新鋭の機械まであった。それなりの広さがあり、椅子の数も多いのだが、今そこにいるのは彼ら三人だけだ。
「今は、調整時間で私一人なの」
 人払いをしてもらうこと。それが【あらかじめの準備】だった。
 セトはサイに貸してもらった雪のホロ・データを興味津々に眺めながら、一通り室内の説明をした。天蓋に移る空を時間で変えていく装置や、そこに映す星図。人工降雨機を操作する端末。そして…温度調節機。
「これは普段、いじっちゃいけないって言われてるの。でも、そんなことよりも、見てみたいわあ、雪」
 気象操作官とも思えぬ発言に二人はちょっと脱力した。昔からこういうやつなのだ――まったく、女というものはわからない。しかしともかく、目的の機械は発見できた。見ると、ディスプレイにはこまごました文字がうかびあがっている。
「ちょっと待ってて……上空温度……これだわ」
 セトがそのおっとりした外見とはうらはらにすさまじいキータッチで機械情報の奥深くに潜りこんでいく。
「……マイナス三〇℃、と。これで見れるのね?」
「理論上は、な」
 サイが冷ややかとも取れる声で答える。しかし、それがあがっているためだというのは一目瞭然だった。

 ……冷たい。頭から足の先までいつもと違う空気に覆われている。
 これが『寒い』ということなのだろうか。
 ハルは両手を広げたり結んだりしながらそう考えた。見ると、サイは何と大きな毛布を取り出して包まっている。あの大きなザックの中身がやっとわかった。セトも、常備されたものか、ふわふわした上着を羽織っている。
「ごめんね。さすがにこの程度のエアコンじゃ駄目ね……下の人は大丈夫かしら」
 遥か下方、人口雲の下にかすかに見える明かりを眺めながらセトが呟いた。一応、気象操作官としての義務は忘れていないらしい。
「地上からかなり離れているから、大丈夫とは思うけど。……でも、一応警報でも出しておけばよかったかもな」
 ハルは安心させるように呟き返した。しかし、目の前の窓が一気に曇り、さらにひびのようなものが入ったときはハルもさすがにあせった。それを指差すと、サイは、
「ああ、空中の水蒸気が凍りついたんだろ。大丈夫、ここはよっぽどのことがないかぎり壊れないから」
 とけろっと言った。雲はますます灰色になっていく。
 ……と。緊急連絡を示すランプがけたたましい音と共に光り出した。セトは慌てて回線の前の受話器を取った。
「はいっ、何かありましたか?」
 男二人はじっと耳をそばだてた。しんとした室内に少女の声が響く。
「はい、はい。……ええ、そうですか……」
 セトはそう対応しながら二人に向けてVサインを送った。やがて回線を切ると、頬を紅潮させて叫んだ。
「成功よ! 下で、見たこともないものが降ってきてるって!」

 気象制御室を自動制御にして、三人は下に我先にところがり出た。外はそれほど温度の下がっている様子はない。と、三人の姿を認めた警備員が駆け寄ってきて尋ねた。
「ああ、気象官の方ですね。こ、これは、一体どういうことなんですか? 妙に冷たいし、雨でもないものが降ってくるし」
 すっかり弱ってしまった、という声だ。
 三人は顔を見合わせた。そして、セトが幼い頃から『天使の微笑み』と呼ばれている極上の笑顔で答えた。
「空からの贈り物よ」

 雪はその夜じゅう降り続いた。サイは
「これは画期的なことだ、うん」
 と一人ごちていたし、ハルとセトは生まれて初めての生の雪に興奮して、捕まえようと手のひらをいっぱいに開けて上を向いていた。また、ちょっぴり積もった地面に手のひらを当てて手形をとったり、すっかりはしゃいで子どもに戻ったようだった。
 翌日はその分大忙しだった。セトが残っていたことは明白だったし、サイは自分から目的地をばらしてしまったから呼び出しを食らったのだ。
 三人はしゅんとうなだれて、呼び出されたコントロールタワーの主――マスターのもとを訪れた。間近で見るのはこれが初めてだ。初めて見るマスターの身体はまるでキンダーに通う子どものように幼いが、年齢を重ねたものにだけ備わる深いまなざしは確かに彼をマスターたらしめていた。そのマスターの視線が、三人に向けられる。
 と、その目がふわりと柔らかなものに変わった。
「君たち、すごいことをしたねえ。昨晩からこっち、回線がパンクしそうだったよ。だけど、面白いねえ……雪なんか、旧時代の遺物でもう見れないものだと思っていたのに」
 三人は顔を見合わせた。すっかり怒られるものだとばかり思っていたからだ。しかしその口調は、怒るというよりも…せいぜいいたずらをたしなめる、といったものだ。サイはおずおずとマスターに尋ねる。
「あの……雪をご存知なんですか?」
「ん? ああ、普通の人には機密事項だけどね、ここまでのし上がると教え込まれるんだ。旧時代の歴史とか……ね」
 そういって笑う。三人はこの気さくな指導者の真意をわかりかねて、思わず尋ねた。
「僕ら、罰なら何でも受けます。何をすればいいんですか?」
「そうだね……なら、また雪を降らせて欲しい」
「え?」
 一瞬、耳を疑った。しかしマスターはお構いなしに言葉を続ける。
「子どもたちからの声があってね。もう一度、あの不思議な光景を見てみたいんだそうだ」
「それは……」
「僕の独断で決めたんだ。少々ドーム内が寒くなってもかまわないから、雪を雨と同様、定期的に降らせて欲しい」
 マスターは顔をちょっとほころばせていった。


《僕は、ここ以外の世界を知らない。》
 ハルは一つ、大きな伸びをしながら考える。

《でも……
 この世界の外は、きっともっと素敵なことでいっぱいだ。》

 白い雪が、ちらちらと降り注いていた。

 【了】